(ж>▽<)Enjoy!! Organic Life♪

オーガニックライフアドバイザーのつぶやき

改めて③



大学 (土佐清水) 編


大学に入って、部活もサークルにも入らず

毎日家と学校を往復するのみの生活。


そんなある日、一気にアトピーが悪化した。


顔がパリパリになって、ひび割れのように傷ができた。


そこからはヌルヌルとした浸出液が流れ出てきて、

小さい針で細かく突付かれるような痛みがあった。


漠然と将来に不安を抱き、精神的にダイブまいっていた時期だった。


今考えるとアンバランスな精神状況が引き起こしたのかもしれないなぁ。


あまりにひどくなってどうしていいか分からず、親に電話して弱音を吐いた覚えがある。



その時に初めて親の前で泣いた。


親も心配してくれて、色々調べてくれたようだった。


知り合い伝いに土佐清水の病院の事を聞き、


「行ってみる?」


と言ってくれた。


何をしてもこれ以上はひどくならないだろうと思い。



大学の夏休みを利用して行くことにした。


家から何時間かかっただろう。


電車を乗り継いで高知へ、更にバスで田舎へ向かった。


高知駅近くのビルの町並みとはうってかわって、


海岸線波を走り抜けた。



綺麗な海が目に飛び込んだ。


ジブリ作品に出てきそうな田舎の港町。



山と海に挟まれた小さな町


港にはカツオ漁うお座にでも行くのだろうか

漁船船が並んでいる。


バスから降りて、診療所を探した。

パンフレットの地図を片手に、歩くこと数分。


ボロボロの鉄筋の建物にたどり着いた。


その建物からは包帯でぐるぐる巻きの人が出入りしている。

この平穏な町には不似合いななんとも奇妙な光景だった。

それを見てすぐに直感した。


明日からおれもあんな風になるんだろうな。。。。。


そんな奇妙なカッコに町の人々も見慣れているようで、

誰も見向きもしていなかった。


早速診療所へ入り、色々な手続きを済ませた。


佐清水病院は通院制の為、提携している各旅館に泊まるのが決まりだった。


食事の制限等もあるため、数個の旅館と提携して遠方からの患者に対応しているようだった。


その旅館からは診療の時間に合わせてバスが出ており、

そのバスに包帯巻きの人間が7~8人乗って診察へと向かう。


自分が泊まった旅館は、オーナーが病院の看護士さんだった。


初めての診察の日、汚れてもいい下着と服を手に持って

バスバスに乗った。


昨日手続きをした診療所に入ると、


待合室には何十人ものミイラが患者が待っていた。


診察まで2時間ほど待ち、


あの有名な丹羽先生と対面。



何万と見てきたアトピー患者の一人に過ぎないのだろうなぁと思いつつ


診察に耳を傾ける。


看護婦さんに薬の種類を指示するようにごちゃごちゃしゃべり、

簡単に質疑応答。


ハイ終わり。


こんなもんか、、、、


次に、サンドバスと言われるなんかが出ているらしい小さい石の風呂に入る。

(砂風呂みたいなもの)


その後、各症状にあわせた薬を全身にべたべたに塗る。

足のつま先から顔まで、とにかく全身。


その上から包帯でぐるぐる巻きに


ミイラの完成!ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノワーイ


毎日100体近いミイラを製造している、立派なミイラ工場である。


その日の診察&治療はそれで終了。


またバスに乗って帰る。


初日は診察があったが、診察は毎日ではなかったと思う。


2回目からは先生も毎回違っていた。


旅館での生活は、

部屋でテレビを15分見るのに100円お金

クーラー15分で100円お金


小銭お金、小銭お金、小銭お金、小銭お金、小銭お金、小銭お金、小銭お金、小銭お金、小銭お金、小銭お金


お金が掛かってしょうがありません。


診察台もその日その日で支払わなければならないから、結構な出費です。。。

そんな


蒸し風呂  ミイラ 

の生活を2週間ほど繰り返しました。


肌が確かに強くなってきていました。

そして退院。


その田舎での缶詰生活から開放され、もう二度と行くもんかと強く思いました。


退院後は、家の近くにある名古屋の診療所で定期的に診察を受けました。


名古屋の診療所の先生は、とてもいい先生でなんか信用できる人でした。


ラグビーをやっていると言えば、


「運動することはいいことだよ!新陳代謝が良くなるし、体力もつくしね」



「ただし、汗を掻いたらすぐにシャワーを浴びるんだぞ」



「それだけ気をつければ続けても大丈夫だよ」


皮膚科の先生からこんな台詞を聞けるなんて思っていませんでした。


そのラグビーに対する理解が嬉しくて


その先生を信用しようと思いました。


その後3年間、何も疑うことなくずっと土佐清水病院から処方される薬を使っていました。



毎月塗り薬だけで2万くらいかかってたかな?


飲み薬まで入れたらその倍位かな?



途中で気づいたのが、保険が効かないってこと。←今はわかりません


なんで保険効かないんだろうっていう疑問から少しずつ不信感が出てきた。



薬は自分なりに少しずつ弱いものにしていってたし、塗る頻度も伸ばしていってた。


もしかしたら、減ステをコントロールできていたのかもしれない。


しかし、



ステロイドが入っていると言う事実を知ったこと

            +

講演会に行かないと薬を処方してくれないという方針

            +

保険が利かないことと塗り薬と飲み薬の値段




こんなこと一生続けるのか?って考えたときに、




嫌だ!!



と思いフェードアウト。



当時考えたのが、


アトピーがただの乾燥肌なら


傷と乾燥は別の問題と考えた。


傷は傷の処置法をして、乾燥は感想の処置をすれば治るのでは?


ということ。


そのため、傷薬と保湿にシフトした。


しかし、すぐに湿疹が掻いてできただけの傷じゃないと気づく。


湿疹が出ている原因からつぶさないとといけないと考える。



それらをネットを通じて調べた結果、食品添加物や農薬などの副作用に目が留まる。


それからはひたすら添加物、食品の知識をつけることに没頭。


調べれば調べるほど、日本の食事情が乱れていることに気づく。



大手食品メーカー、大手商社の安全性を追及せずに生産を続ける姿勢に疑問を持つ。


それと同時に、ひたむきに安全な商品を作り続ける生産者がいることを知る。


しかし、デフレや不景気で安全で手のかかった商品は

値段が高いと言う理由で出回っておらず、消費者もよさを知らない。


それをつなぐ小売は、安いほうが売れるからと商品の品質ではなく以下に安いものを扱うかに注力している。


これらの現実を身をもって知り、よいものを適正な価格で、品質のよさを伝えながら売ろうと決意。


ここまで考えるようになってきていたのが、就職をしてから2年目。


オーガニックの知識を深めるために、オーガニックコンシェルジュの資格を取得。



この時、ブラザー工業という会社で働いていた。


SCMの仕事を2年間。

営業企画で商品化推進を1年間経験した。


グローバルな環境と、会社の社風は言うことなかったが自分がやるべきことではないかと

考え始めた。


こういういい方をすると会社に申し訳ないが、FAXやプリンターをいくら売っても喜びが少なかった。

メーカーという立場上、消費者との距離が遠かったのもモチベーションの低下につながったのかもしれない。


やはりオーガニックに係る仕事をしたいと考えた。

ここで転職を決意。


この時は、多くの人にどうこうしたいという想いよりは自分が健康になるためにもっと知識をつけたいと考えていた。


そんなときに運命的な出会いをした。


毎月、買い物に行くためにおばあちゃんの家に通っていた。

その通り道にオープンしたお店がオーガニックスーパー旬楽膳


客として1年間くらい通ってたかな。



このお店は日本にも例を見ない規模、品揃えでとても楽しいお店。


この会社で1年半働きました。